県立一中の新垣栄三郎

20世紀ハイツ

2014年01月30日 10:04



沖縄県立第一中学校

戦後苦難の復興を経て現県立首里高校となっておりますね。

そんな戦前の一中を垣間見れる貴重な資料を入手。

数少ない生存者による同窓会によっておそらく戦争で形にできなかった当時の卒業アルバムを復刻した


「養秀」 昭和14年3月 卒業記念寫眞帳







県立1中といえば。。




第二次世界大戦の最中、昭和二十年三月二十七日、沖縄県立第一中学校(首里高等学校の前身)においては、米軍の砲爆撃下この地で異例・悲壮な卒業式が挙行され、第五学年生と第四学年生が同時に卒業し、ただちに第三学年生と共に鉄血勤皇隊が編成され、第五砲兵司令部に配属された。また、前年十一月から通信隊要員として教育訓練を受けていた第二学年生は、三月二十八日、少年特別志願兵として電信兵第三六連隊に入隊を命ぜられ、各無線中隊に配属された。

鉄血勤皇隊、通信隊の学徒兵は、郷土防衛の若い血潮を燃やしつつ、陣地構築、通信、伝令、弾薬・糧食の運搬、戦傷兵の輸送その他の任務に精魂を傾け、熾烈な砲爆撃下に決死敢闘、対戦車肉薄攻撃、挺身斬込みに参加し、終始軍の一員としてその責務を遂行した。

非戦闘員であるべき学業半ばの年端もゆかぬ二百有余の学徒兵は、いまだかたい蕾のまま散華した。

*詳しい歴史や状況は社団法人・養秀同窓会公式サイトに載っております。

「1961年<昭和36年3月1日> 創立80周年記念誌「養秀」、養秀同窓会会員名簿を発行。」

とありますので、このアルバムはその時のモノではないかと思われます。


その後一中健児の塔を同窓会の浄財により建立されました。



書籍の内容は昭和14年の卒業アルバムそのものですが、紙質が新しくとてもきれいな状態なので

逆に現代の私達にはリアリティがあり興味深いモノです。


ページをめくるとまず、1930年昭和5年に創立50周年落成した校舎の写真。

校歌、校旗、胡屋朝賞校長(当時の藤野憲夫校長は戦死されたようです。)の写真。




次のページは  「花と散る・・・」 と題された戦死された先生方の写真。







先生というよりもやはり軍人といった感じ。

明治大正期はコンクリート製のモダンな校舎で沖縄中のエリートが勉強し、毎年東京へ修学旅行へ行き、

当時で英国人英語教師がいた沖縄一お洒落な学校も戦時下ではこんな風になってしまうのですね。


その他は柔道部剣道部角力部などの部活動の写真が続きます。




画像取り忘れましたが、卒業アルバムらしく普段の何気ないじゃれている校内の幼い生徒たちのスナップも。

今のその辺の子供たちと何も変わらない無邪気な姿(軍服にゲートルという以外は)。

そしてクラスごとの一人一人の写真が載るページへ。


へ~、ふ~ん 今と変わらないうちな~んちゅじら~だな~ だれだれに似てる~ さすがにこの頃は沖縄の名字ばかりだな~ などと眺めていると・・・





ん?





んん??






あ、新垣 栄三郎 ?






新垣 栄三郎 氏 だ~~!!!



古美術商としては見逃すわけにはいかない名前とどことなく見覚えのあるお顔立ち。

そう、あの沖縄壺屋を代表する名陶工、<新垣 栄三郎 (1921-1984)> の若き頃の写真じゃないですか。

金城次郎・小橋川永昌(仁王)と共に壺屋三人男と称されるものの、作品数が圧倒的に少なく当人の写真ですらも

ほとんど出回っていないという幻のようなお方。。




*こんな大事なイベント時にも横顔の写真しかないという・・・でも横顔からも面影が。



早速詳しく調べてみると確かに第一中学校卒となっておりました。

1921(大正11)年生まれという事は、1939(昭和14)年当時18歳。

間違いなくこの年に卒業という事になります。

戦火を逃れ生き延びた栄三郎氏は戦後、濱田庄司と河井寛次郎の元で修業し、

その後琉大教授を経て作陶に没頭し、歴史に残る名作を生み出した偉人の若き頃の貴重な写真が

こんな形で拝見できるとは!

あの濱田庄司に影響されたという赤絵キビ文が生まれる数年前のお姿である。


沖縄戦中の一中のアルバムというのも貴重ですが、

新垣栄三郎氏の写真という意味でも希少な1冊ですね。

全58頁函入り 最後には全員の住所録も載っています(鉛筆の書き込み有)。

持っていたい気はしますが、資料としてもとても希少なためご用命な方へお譲りします。

価格¥15,000 税、送料込






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